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第5話 お前を愛するつもりはない

Auteur: 夢見叶
last update Date de publication: 2026-01-25 20:06:47

 王宮の大広間の扉が、背後で重く閉まった。

 さっきまで耳を満たしていた楽の音も拍手も、石造りの回廊に一歩踏み出した途端、遠い別世界みたいに薄れていく。残るのは、私と隣を歩く王太子レオン殿下の足音だけだ。

「今日はご苦労だった、聖女リディア」

 殿下は、宴の最中と変わらない、公務用の笑みのまま言った。

「陛下や客人の前で、聖女としての役目を果たしてくれて感謝する」

「身に余るお言葉です、殿下。本日の婚約発表も、滞りなく済みましたね」

 口から出るのは、訓練された模範解答だ。

 でも胸の奥では、別の言葉が渋滞している。

 ──これから、私はこの人と暮らすのだ。

 聖女としてだけでなく、王太子妃としても。

 人払いされた回廊には、他に誰もいない。護衛騎士たちでさえ、少し離れた場所に控えているだけだ。

 だから、今なら。少しくらいなら、仕事以外の話をしてもいいはず。

「殿下。あの……これからの生活について、少し伺ってもよろしいでしょうか」

「生活?」

 殿下の足取りが、わずかに緩む。

「はい。聖女としての務めは、これまで通り大神殿中心で構いません。ただ、王宮との行き来や私の居室のこと、休息の時間の取り方など、事前に取り決めをしておけたらと」

 なるべく感情を込めないように、項目だけ並べる。これは恋の相談じゃない。案件のすり合わせ。そう自分に言い聞かせながら。

「細かいことは侍従に任せればいい。必要な段取りは整えさせる」

 レオン殿下は、窓の外の塔を見たまま、視線をこちらへ戻さない。

「君の負担は、王宮として可能な限り減らそう。だが、国難の折には、聖女も王太子妃も休むわけにはいかない」

 国難。

 前の世界の上司も、よくその言葉を使っていた。「今月は非常事態だから」「ここだけは踏ん張りどきだから」。

 けれどここは、もうあの会社ではない。私はひとつ息を吐いて、喉まで出かかった毒を飲み込む。

「国難の際に働くのは当然です。私が伺いたいのは、平時の話でして」

「平時?」

「はい。仕事をきちんと果たすためにも、どこまでなら休んでよいのか、どこからが限界なのか。お互いに知っておけたら、と思いまして」

 言いながら、自分でも図々しいことを言っている気がしてくる。

 それでも、聞かずにはいられなかった。前任の聖女が倒れた話も、見習いが奉仕の最中に崩れ落ちた夜も、まだ目の裏に焼き付いているからだ。

「……そのような細部は、いちいち事前に決める必要はないだろう」

 殿下の声は、月光より冷たく感じられた。

「王宮も神殿も、状況に応じて柔軟に対応する。君は与えられた場で、役目を果たしてくれればいい」

「柔軟に……」

 それは、私の知っている危ない言葉だ。

 前の世界でも、就業規則の曖昧な文言に、よく添えられていた。裁量。自己判断。やむを得ない事情。

「もちろん、聖女としての務めはこれまで通り全力で果たすつもりです」

 私は笑みを保ったまま、言葉を継ぐ。

「ただ……恋愛でなくて構いません。白い結婚でも。それでも、せめて、お互いに人としての信頼だけは、築けたらと思うのです」

「信頼?」

 今度こそ、殿下がこちらを見る。けれど、その灰色の瞳には、戸惑いとわずかな警戒しかない。

「困ったときに助けを求められるとか、限界が来たときにもう無理ですと言えるとか。そういう相手であってほしい、と」

 言ってから、胸がきゅっと縮む。

 これは案件ではなく、私自身の、ささやかな願いだ。契約書の余白に、小さく書き添えたい一文。

「……俺は」

 レオン殿下が、歩みを崩さずに言う。姿勢も声も、公務の時と同じだ。

「俺は国と民に信頼されるべき立場だ。王太子として。個人として誰かに寄りかかる余裕はない」

「寄りかかるつもりはありません」

 気づけば、少しだけ語気が強くなっていた。

「私が求めているのは、弱音をぶつけ合うことではなくて。正直に限界を告げても、責められない関係です」

 それでも、と喉の奥で言葉が渦巻く。

 それでも、私はあなたの役に立ちたいし、あなたにも私を一人の人間として見てほしい、と。

 けれど、その言葉は最後まで形にならなかった。殿下の横顔が、あまりにも固く、決意で縫いとめられていたから。

「俺は、王として生まれ、そのように育てられてきた」

 殿下の声は淡々としているのに、どこか自分自身に言い聞かせているようだ。

「感情や私生活より、国と責務を優先するように。君との婚姻も、その延長だ。……君にとって不公平なのは分かっている」

「不公平だなんて」

 反射的に否定する。

「だから、最初に言っておく」

 回廊の端に近づいたところで、殿下が足を止めた。窓の外には、王都アルシエルの灯りが、夜空と溶け合ってまたたいている。

「君に、期待されても困る」

 その前置きで、胸の奥がひやりとした。

「……期待、ですか」

「俺は国のための駒だ。誰か一人を特別に愛するつもりはない」

 言葉が、石壁にぶつかって、もう一度私の耳に返ってくる。

 レオン殿下は、まっすぐ前だけを見て、続けた。

「お前を愛するつもりはない。愛せなくても、役割を果たせばいい」

 その一文は、きれいに整えられた条文みたいだった。

 主語と述語が過不足なく並び、解釈の余地も、情状酌量の余白もない。

 ああ、この人は本気で誠実なつもりなのだ、と分かってしまう。

 最初から期待させておかなければ、あとで裏切ることもない。最初からないと明言しておけば、そこから増えないぶん、きっと誰も傷つかない。

 ──そう信じている顔だった。

 胸の内側から、何かがすっと冷えていく。

 けれど私は、笑みを剥がすことができない。

「……承知いたしました、殿下」

 喉の奥が少し焼けるのを、言葉で押し流す。

「恋愛を求めるつもりはありません。聖女として、王太子妃として、与えられた役割を果たします。それが、国と大神殿のためになるのなら」

 私のため、ではなく。

 自分で選んだはずの言葉なのに、耳に届いた瞬間、他人の台詞みたいに聞こえた。

《……これは、もめるやつですね》

 頭の奥で、柔らかい声が響く。

 契約の女神様だ。いつの間にか、静かに成り行きを見ていたらしい。

《お前を愛するつもりはない。愛せなくても、役割を果たせばいい……はい、問題発言、ひとつ登録っと》

「登録?」

 心の中で思わず聞き返す。

《ええ。今のやりとり、全部発言ログとして保存しました。婚約契約の実態確認のときに、証拠として出せるように》

 口調はいつも通り軽いのに、内容はやけに冷静だ。

《片方が明確に愛さない宣言をしておきながら、一方的に奉仕を求めていた、となれば……将来、いろいろと困るでしょう?》

「将来、ですか」

《はい。たとえば三年後に、この契約、破綻してません?って聖女さんに聞かれたり、とか》

「女神様。どうか、このご発言は内密に」

《もちろん、勝手に流したりはしませんよ。必要になったときだけ、形式通りに提示します》

 形式通り。

 それは、この世界で一番、怖い言葉のひとつだ。

 私は胸の奥をそっと押さえる。

 こんなふうに傷ついたことも、きっと聖女として当然で片づけられるのだろう。

 それでも私は笑う。

「改めて、殿下。本日はありがとうございました」

 振り返って、深く裾をつまみ、宮廷礼をしてみせる。

「今後とも、聖女として、王太子妃として、どうぞよろしくお願いいたします」

「……ああ」

 レオン殿下は、少しだけ視線をそらしてから、短く答えた。

 回廊を吹き抜ける夜風が、マントの裾を揺らす。

 さっき殿下が告げた一文が、まだ耳の奥で何度も反響している。

 お前を愛するつもりはない。

 愛せなくても、役割を果たせばいい。

 三年後の神前確認式で、この言葉が国中の前でログとして読み上げられ、私がようやく自分のための契約を書き始めることになるとは、このときの私はまだ知らなかった。

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  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第20話 橋を渡る人

     西の空が赤紫に沈みかけていた。 契約大橋の石畳には、紙吹雪と花びらの残骸が、湿った色のまま張りついている。さっきまで祝祭だった場所が、今は片付け途中の舞台みたいに静かだ。 遠くの広場からは、まだ人々の声が風に乗って届いてくる。 断片的な噂と、屋台を畳む音が、まだ風に乗って届く。今日一日で「契約」という単語を何度聞いたか分からない。 橋のたもとに立つ私の隣で、低い声がする。「本日の移動経路は、簡易支援契約第3条に基づき、私と護衛隊がご一緒します」 礼服から簡素な外套に着替えたセルジュ様が、いつもの事務的な口調で告げた。少し後ろには、女性騎士と平服の護衛が数名。「……私を一人にしない、条文でしたね」 さっき署名したばかりの文言を、私は口の中でなぞる。 聖女の安全確保のため、原則として単独移動を禁止する。 最低限と呼ぶには、少しばかり手厚い内容だ。(最低限の意味、やっぱりおかしい) 心の中だけでツッコミを入れる。《リディア、稼働状況の確認です》 女神様の声が頭の奥に降ってきた。《本日の精神負荷、平常時比でおよそ5倍。歩行可能ですが、急なイベントは控えましょう》「診断がざっくりしています」 足元を見ると、石畳の一部に古い文字が刻まれている。国と神殿の条文が、何十年も前からここにあるのだろう。夕焼けを受けて、その一行一行がうっすらと光っていた。《契約大橋は、もともと国と神殿の約束を刻んだ場所です。 最近は、個人のログも、少しずつここを通るようになりましたが》「私の三年間分のログも、今日ここを通ったんでしょうか」《ええ。ブラック寄りのやつが、どっさり》 背筋に、ひやりとしたものが走る。 国のため。王家のため。誰かのため。 その言葉で塗りつぶしてきた三年間が、光の粒になって橋の下へ流れていったところを想像してしまう。「……行きましょう」

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第17話 聖女に与えられた選択肢

     祭壇の上に浮かぶ光の契約書には、まだ二行の選択肢が揺れていた。 ① 改善案つきで再契約 ② 解消(神前離婚) 女神様の羽ペンが、その二行の間をくるりとなぞる。本堂を満たしていたざわめきが、ぴたりと止まった。《……なお、本件の最終決定権は、聖女リディア様にあります》 静かな声が、高い天井に届いて反射する。 最終決定権。私に。 3年間、「国のため」「王家のため」と言われ続けてきた。 何かを決める時、私の名前が主語になったことは一度もない。

  • 白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました    第15話 お前を愛するつもりはない

     祭壇の上で、女神様の羽ペンがくるりと回った。《それでは、形式通り――発言ログから抜粋を再生します》 眠たげな声色はいつも通りなのに、本堂の空気だけがきゅっと締まる。石造りの壁も、色ガラスも、息を潜めたみたいに静かになった。 私は、膝の上で組んだ指に力を込めた。冷たく汗ばむ手のひらが、手袋越しにも分かる。(大丈夫。これは、三年間かけてここまで積んだログの話) 天井の契約文様が淡く光り、そこから垂れるように、薄い光の板が何枚も降りてきた。半透明の羊皮紙が円を描くように私たちの頭上に立ち上がり、それぞれに文字が浮

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